詩人、磯山和人について

 

 

ゲルタ・ストラテジーを主宰する哲学者であり、深谷大学恒久箴言創造学部終身真理教授として高名な東野猛氏はこう言っている。

 

 

 

「友を選ばば詩人に限るとはよくぞ言ったものだが、数少ない私の友の中の一人、卓越せし幽玄の詩吟家、真理語の大家、大なる挑発者、磯山和人」(※ゲルタ・ストラテジーより引用)

 

 

 

ミゲル・デ・セルバンデスの世界的名著「ドン・キホーテ」において語られる

ギリシャとラテンの詩聖」といえばそれぞれホメロスウェルギリウスであることは周知の事実であるが、ここに「深谷の詩聖」こと磯山和人が加わるべきであるという風聞が、どうやら赫奕たる真理求道者連の間で広まっているようだ。

 

 

磯山氏の風貌は、身の丈八リューとも十二万ピエ・ド・ロワとも言われているが、五ピエ・ド・ロワが約一.六二メートルであることを踏まえると、約三十八.八八キロメートルということになる。これはまさにフランソワ=マリー・アルエことフランス啓蒙思想の巨人、ヴォルテールの短編「ミクロメガス-哲学的物語-」に登場するシリウス星の住人、ミクロメガス氏に対するhommageなのは明らかだろう。万物の相対性を象徴する名を冠したミクロメガス氏に例えられるとは、まさにヴォルテールをして知の巨人と形容されるべき存在ということだろうか。

 

 

それにしても、磯山和人の名を口にする熱烈な群集の数に比して、磯山和人の口にした言葉の伝わる数の少なさよ!

 

磯山和人の生み出す希少な詩文、それを織り成す静謐な流体ともいうべき文言。

我々が築き上げてしまった混迷に浸った文明、汚泥に塗れた時代に突如として現れたそれらは、むしろ沈黙によってこそ詩人、磯山和人の威光と名声を万里に走らせているのではないだろうか。それらが空間と時間という神の御手から解き放たれることがあるならば、敬虔なカトリック教徒から古代モーロ人のような回教徒まで教化し尽くし蒙を啓くのに数瞬とかかるまい!

 

 

彼の存在に明確な姿形を与えようとするならば、英傑として名高い猛勇である無敵の騎士アマディス・デ・ガウラの弟にして、兄ほど気取り屋でもなければ涙もろくもなく、いかなる状況にも冷静に対応し、抑制の利いた英雄気質に兄にもひけをとらない勇猛さを秘めた「秘密の騎士」ドン・ガラオールを想起せずにはいられない。

 

アマディスの嫡男である好漢エスプランディアンは言うに及ばず、アマディスの曾孫であり「燃ゆる太刀の騎士」とも呼ばれた絢爛たる英雄アマディス・デ・グレシアのようなアマディスの子孫たちですら、その実直さと寡黙さが支配する業炎のような武の気質には及ぶべくもない。その実アマディス・デ・ガウラその人を除けばかの「日輪の騎士」に比肩し得るのは彼-磯山和人-だけなのだから……。

 

 

近年、フランスではかの有名なシャルルマーニュ帝の聖騎士<パラディン>であるロラン(偉大なるイタリア詩人アリオストが謳った狂えるオルランドその人である)をはじめとする伝説の十二英傑を踏まえて、磯山和人を「十三人目の英傑」と称揚する何とも知的な諧謔が文壇を席巻しているそうである。

 

 

しかしながら、同時に戒めねばなるまい。

 

「高邁な精神である磯山氏の名著の魅力は改めて説明するまでもないと思う。 ヒトと会ってはヒトを切り、の志を持った人間の強さ、そしてはかなさを一片の錆も許さない名刀の如き冷たさで描写するその現代詩作の極致は、いわば日本文化の孝行息子だ」(※ゲルタ・ストラテジーより引用)

 

上に引用した現代詩文比較学の大家でありイスパシェーネ大学フリエストロン学部ポリュグリヒェンイロフ顧問教授である東野猛氏の書評の通り、「天上啓蒙の成就者」「比較真理の極点」こと磯山和人を進んで誇るべきはむしろ我々日本人であるにもかかわらず、今現在わが国では彼の存在は正当な評価どころか、高潔な議論にも晒されてはいない。

我々は、無知という罪を知覚せず彼の存在に目を向けられない愚昧な大衆が国民の多くを占めているという事実を心から悔い、胸に刻み、脳髄に浸透させなければならない。 

 

 

 

ああ、ドイツの哲人ショーペンハウアー

「歴史を学ぶことで詩人や哲学者になることは不可能である。むしろその歴史から、詩人も哲学者も天賦にしてはじめて成るものであることを学ぶ」

と述べているように、彼の功績はまさに天賦の才と地脈の鳴動によって生み出されているのだ!

 

そこにいる-ある-のはもはや、名状しがたい、何よりも形容しがたい、何者かなのであろう。そして来るべき教化と覚醒の期限を迎えるにあたって、真理という光源に到達しようと歩みを進めるもの達は……

 

 

 

 

いみじくも使徒パウロがコリント人への手紙において以下のように引用したとおり

概念としての磯山和人の存在は、形而上学と神学においても、やはり議論の中心に据えられて然るべきなのではないだろうか。

 

 

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(イザヤ書六四・三)

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり